「アウトサイダーアートとアロイーズ」

青山のワタリウム美術館で開催中の「アロイーズ展」の中で、昨夜、一晩だけ、精神科医斎藤環さんによる「アウトサイダーアートとアロイーズ」という講演があるというのを知り、アウトサイダーアートについても、アロイーズについてもほとんど知らないまま、当日券で聴いてきました。
斎藤環さんの本は、僕が「調子っぱずれ」のピークをちょっと越え、本が読めるようになったあと、いとうせいこうさんの『解体屋外伝』の次に、自宅の本棚からではなく書店で自発的に探し、読んだ本です。つまり、僕は『解体屋外伝』の中に出てくるラカン的世界観を知りたかった。それを知ることが自分にとって必要だと思ったからです。そして、手にとった本が斎藤環さんによる『生き延びるためのラカン』でした。
その後、僕は斎藤環さんの本を次々に読んでいった。『社会的ひきこもり』、『「負けた」教の信者たち』『思春期ポストモダン』、『解離のポップスキル』その他いろいろ。
ラカンの世界観、「現実界」「象徴界」「想像界」という分類も、たとえば、「女性は存在しない」という言い回しも、とてもむずかしい。僕の『生き延びるためのラカン』には、わからない箇所があるたびにページの端を折り曲げているのだけど、その跡が多すぎて本がふくらんでいるぐらいだ。
でも、本のタイトル通り、そして帯の、〈「心の闇」がどうした? ラカンを読め!〉という言葉に従った僕は、いまのところ確かに一応生き延びてる。
斎藤環さんの文章は、切れ味が鋭く、本業の医者の仕事対象となる患者だけでなく文学、サブカル、アートまであらゆるものを読み解く。
昨夜の講演でも、語彙が豊富で、淀みがまったくなかった。博覧強記。
「病跡学」、「病因論的ドライブ」など、耳で音を聞くだけでは意味がわからない精神分析的用語や、アウトサイダーアーティストの名前も頻出する。19世紀末から20世紀初頭の精神分析科医がアウトサイダーアートを「発見」したという歴史から始まり、インサイダーとアウトサイダーアートとの定義について、作品という結果を見るだけでなくプロセスを知ること(実際にDVDで制作過程を見た)、アウトサイダーアートに対する評価の揺れについて、アロイーズの作品の特徴などなど、濃密な2時間の講義だった。
生き延びるためのラカン (木星叢書)

生き延びるためのラカン (木星叢書)

僕が思うに、今の社会には、ラカンじゃなければ解けないことがあまりにも多い。なるほど、ラカンの言葉には、たしかに悲観的でニヒリスティックに響くときもある。でも、幻想に取り込まれずにものを考える出発点としては、けっして悪くない。癒しも幻想だけど、絶望はもっと幻想だ。(…)僕は覚醒していたい。幻想と現実がどんどん接近しているようにみえるこの世界で、できるだけリアルに生き延びたい。そのためにも僕たちには、いまこそ「ラカン」が必要なのだ。
(『生き延びるためのラカン』より)