『1Q84』

インターネットも携帯電話もないという時代設定(1984年)がなるほど必要だった、と最初はそう思った。
この小説に読み始める前の準備として(村上春樹の長編小説を読むのに必要な「ストレッチ」とでもいうべき行為)、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と、ついでに『雨天炎天』を再読したばかりだったので、「三菱パジェロ」という固有名詞がすぐに気になった。その車名は『雨天炎天』のトルコ旅行で、提供を受けていた車だからだ。でも、そんなことはどうでもいい。物語に僕はすぐに没頭した。
村上春樹は自分の処女作(きっかり30年も前のことだ)の最後に、「昼の光に夜の闇の深さがわかるものか」というニーチェの言葉を引用していた。当時、高校生だった僕にはその言葉は、他者を拒絶するきわめて鋭利なアファリズムに聞こえた。
その夜の闇という異世界村上春樹の作品の中に徐々に現れてきた。『羊をめぐる冒険』では、札幌のホテルがその接点だったし、『ねじまき鳥クロニクル』では井戸であり、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』ではクローゼットから通じる地下世界だった。
闇の輪郭は明確に、広くなっていき、そこは現実に対する反世界ではなく、すぐそこにあるものであり、あるいは含まれているものになった。『ノルウェイの森』で、〈 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している〉と語られるように。
オウム、阪神神戸大震災という、現実の闇に村上春樹はコミットし、それは直接的に、あるいは隠喩的に作品に登場するようになった。闇が存在する世界に僕らは生きている。
不完全な世界に惑わされず充実した生を続けるためには、この『1Q84』の主人公、青豆と天吾のように、誰の価値観にも拠らず、自分を確立し、独立した存在になることが必要である。それを村上春樹的に実践すると、毎朝走り、たんねんに身体を鍛え、きちんとした食事にこだわり、自分の決めたルール(シャツのアイロンがけの手順であったり)を守ることになる。
それは、予測不可能な未知(例えば月が二つあるような世界に放り込まれること)に常に対処できる状態でいるために必要なこと。思想的にはマッチョにはならずに、ナルシシズムにも陥らず、ゴージャスな美食とも無縁に。
その一方でイスラエルでは空虚な一般論ではなく個人の視点から戦争の本質を見つめたスピーチをし、世界に対する深い洞察に満ちたこのような小説を書く。
以前、村上春樹が訳したティム・オブライエンの『ニュークリアエイジ』を、彼は訳者後書きの中で「現代の総合小説」であり、「魂の総合小説」と定義している。この『1Q84』も(1980年代に書かれた『ニュークリアエイジ』をアップデートさせた)村上春樹による「現代の総合小説」である。また、「やみくろ」やら『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』やら、彼のこれまでの作品に出てきた断片やモチーフが名前や姿を変えて小説に登場しているが、それは『1Q84』が「村上春樹の総合小説」だからだ。