『転校生』を観た

池袋の東京芸術劇場に『転校生』を観に行ってきました。
『転校生』 演出=飴屋法水、作=平田オリザ
http://festival-tokyo.jp/program/transfer/
21人の女子高校生のために書いた平田オリザの戯曲『転校生』に、演劇界・美術界で伝説的な話題を集める飴屋法水がSPAC - 静岡県舞台芸術センターの製作により挑んだ衝撃作の再演がついに実現。出演するのは、静岡県全域からオーディションで選ばれた女子高校生たち。ある高校の教室、いつもと変わらない日常に、突然ひとりの転校生が現れる・・。単調な日常に潜む他者との出会い、人間の存在の不確かさが浮かびあがる。
ただいま21時10分20秒。5分間で観た感想の断片を記します。
演劇は、コンサートや映画と比べてはるかに情報量が多いです。あるいは僕が演劇に慣れていないのでその処理能力が劣っているのか。注視すべき場所はステージの上だけではない。
「女子高生」たちは客席の後ろから登場し、ステージに上がり、また客席に下りていく。会話は、セリフは客席に向かって発せられるものは全体の1/3ぐらいだ。さらに21名の「女子高生」の中には僕の高校の後輩が2人いる。そうなると、いくら富士山が綺麗に見える日だろうが静岡の衆らはわざわざ屋上には上らないぞなんてことも考える(これはどーでもいい余計な情報)。
ペットの話では東中野にあったという「動物堂」を連想したし、ガザ空爆の話が始まったときは、今年1月の「ガザに光りを!」デモでの飴屋さんの太鼓を叩く姿を思い出してしまう。
物語はブラウン運動のように動き話しまわる女子高生たちのように、決して収斂されていかない。岡本さんはなぜこの高校に転校してきたのか。WHY? その疑問に答えは与えられない。それはカフカの枕詞のように不条理なのか。でも意味を考えているうちに、僕だって1階N列2番に座っている「転校生」ではないかと思ってしまう。
最後の「せーの、どん」では、会場でおこっていくことをずっと追っていた自分の中のなにかの回路が不意に堰を切ったように開放されて、涙が出てきて動揺してしまった。帰りの池袋駅構内の人の流れの中でも僕はまだ「転校生」だった。そして明日の朝9時30分には「せーの、どん」で走り出すゼッケン2199番の長距離走者になる。
『転校生』を当日券で観に行こうと思い立ったのは、この前日に山口洋さんから送ってもらった彼の新しいアルバムを聴いて感じた言葉が、イルコモンズさんによる『転校生』の感想にも同じ言葉があったから。「生の肯定」、僕はそういう表現を聴きたい、観たい。それと木曜に観に行った友だちからもお勧めされたので。感謝。観に行って本当によかった。