「パッチワークというのは」

長田弘 (前略)パッチワークというのは、自分の手で自分の現在を新しくつくりだす方法で、はぎれ、断片、屑などは、その破片の一つひとつが記憶なんです。記憶を紡いで必要な大事なものをつくることがアートであって、アートというのは新製品なんじゃない。記憶の活用なんです。
鶴見俊輔 パッチワークは、絶えざる引用です。収容所のように、活字とか本がなく、図書館に行くこともできないところでは、記憶のなかで繰りかえしルネサンスが起こる。言葉というのは、いつ誰がつくったかわからない何万年も前の人の仕事の引用ですから、書くということは、何だかわからない仕方でこれを紡ぐことです。パッチワークも、誰が作ったかわからない糸の一本一本がそのなかに入っている。
鶴見俊輔長田弘『旅の話』(晶文社)より
上の写真は、はーぴーのベランダに掲げられた、はーぴーがパッチワークしたパレスチナの旗。
「イルコモンズのふた。」には、〈いま、ともだちのデザイナーのうちのベランダには、こんなふうに旗がだしてある。南西の方角を向いたパラボラ・アンテナの、そのはるか遠くかなたある衛星から日々届いてくる、海外からのさまざまなニュースに対する受けこたえとして、その旗がそこにあるようにみえる。どんなに離れていても、やはり世界はつながっている。たとえ地つづきでなくても、アンテナやネットケーブルで、世界は幾重にもつながっている。ものをつくる仕事なら、どの仕事だってそうかもしれないが、デザイナーは、自分のデザインしたものが、いつか自分の知らないどこかで誰かの目にふれ手にとられることを想いながら仕事をする。これまで自分が行ったこともなければ、またこれから先行くこともない、そのどこかにいる、これまで会ったこともなければ、また出会うこともない、その誰かへの想像力をもって表現するのだが、その想像力と表現は、こんなふうに仕事以外のところでも発揮されるようだ。〉と紹介されています。
意思の表明はどんな方法でだってできる。どこでだってできる。麹町のイスラエル大使館の前でも、六本木の路上でも、どこかのベランダでも。
高尾山の「ドリームキャッチャーバリケード」は行政代執行で撤去されてしまった。沖縄の泡瀬干潟には、那覇地裁が「埋め立て事業に経済的合理性は認められない」という判決を下したのに、今月、土砂が投入されそうな危機にある(追記:明日1月15日から!)。世界中で抗議の声があがっていてもイスラエル軍によるガザ空爆は1月13日も続いた。そうしたことに僕にだって無力感はある。すごくある。たぶん、それはどんな方法で表現してる人にだってある。
それでも、「だってそれイヤだもん」ということは言い続けたい。それは小さな声でもいい。調子っぱずれのリズムでも、メロディにのっていても、韻を踏んでいても、好きな言葉を引用しても、絵でも、写真でも、映像でも、身につけた缶バッジでも、デモへの参加でも、署名でも、ボイコットでも、blogやmixiに書くことでも、なんでもいい。とにかく、黙らない。うかつにでも、ごちゃごちゃいう。そういった想いを、この旗が勇気づけてくれた。そして、こんなときに僕の頭の中に流れるのは、いつもこの歌だ。
大人だろ 勇気を出せよ/大人だろ 知ってることが/誰にも言えないことばかりじゃ/空がまた暗くなる
あぁ子供の頃のように/さぁ勇気を出すのさ/きっと道に迷わずに/君の家に辿りつけるさ
RCサクセション「空がまた暗くなる」