クリスマスの夜に

blog「イルコモンズのふた」と、阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)『米軍と農民』(岩波新書)を読んで、深い深い感銘を受けたクリスマスの夜でした。
『米軍と農民』は、沖縄県伊江島で米軍占領後の1950年代から、米軍がどのように島民たちの土地を奪い、それに対して島民がどう闘ってきたかの記録。僕は以前、伊江島に行ったことがあるのだけど、恥ずかしいことにこんな闘いの歴史があったなんてことをまるで知らなかった。阿波根昌鴻さんという名前を知ったのも、先日読んだ太田昌秀『沖縄、基地なき島への道標』(集英社新書)の中で紹介されていたから。
阿波根昌鴻さん(戸籍上は1903年生)は、20代にキューバに渡り5年間働き、次にペルーに移り、31歳(1934年)で帰郷する。故郷の伊江島は戦中は激戦地として大きな犠牲を強いられ(島民の半分以上が戦死)、戦後は米軍に島の60パーセント以上を軍用地として占拠された。家屋、農地をブルドーザーで引きならされ、森を焼かれ、強制的に立ち退きされた農民たち。補償金は出ない。〈戦争にも劣らない、いや戦争よりも大きい不幸が真謝(注:伊江島の地名)の農民にのしかかってきたのであります〉(『米軍と農民』より)という長く、辛い土地闘争の始まり。生きるための陳情と座り込みを重ね、1955年には、沖縄本島を「乞食行進」し始める。
〈乞食(乞食托鉢)、これも自分らの恥であり、全住民の恥だ。しかし自分らの恥より、われわれの家を焼き土地を取り上げ、生活補償をなさず、失業させ、飢えさせ、ついに死ぬに死なれず乞食にまでおとし入れた国や非人間的行為こそ大きい恥という結論に至りました。乞食になったのではなく、武力によって乞食を強いられているのであります。〉
〈だが、堂々とした乞食でありました。正直に、事実を訴えました。そして初めは金を集めるのが先でありましたが、だんだん訴えが中心になりました。当時のわたしの日記帳(1955年4月16日)に「募金の件」として、つぎの覚え書きが書いてあります。一、募金は、同情を訴えるだけでは目的は果たせない。二、募金に応ずる人が奮起せざるを得ないように働きかける。進んでやる気を起こさせる。三、自分だけでなく、他人にも勧めてやらせたくなるように仕向ける。四、後日になっても、もっと多くの募金に応じておけばよかったと思わせるようにする。〉(『米軍と農民』より)
この1955年には、伊江島の真謝地区では、生き延びるために米軍演習地内での耕作を強行し、「米国人以外の者の立ち入りを禁ず」と書いてある看板に対して、「地主以外の立ち入り禁止」という看板を立て始める。投獄されたり、爆撃演習の被害にあう島民も出る。しかし、闘い続ける。
〈同氏は、非常にユニークな発想の持ち主で、土地闘争のさなかに、「アメリカ人は何もわかっていないからわれわれが教える。そのためにはわれわれが知的な存在でなければいけない、農民も勉強しなければいけない」ということで、東京の労働学校に伊江島の青年たちを順繰りに送って勉強させたほか、阿波根さん自らも労働学校に入って勉強している。すでに六十歳を越してからの話である。〉(太田昌秀『沖縄、基地なき島への道標』より)
異議申し立てをしながら、自分を守り賢くなっていく、“protest”と“protect”の徹底した実践者。命がけの、非暴力による抵抗の記録。