曾祖父の大航海

tuktukcafe062008-11-06

明治17年1884年)生まれの、僕の曾祖父(ひいおじいさん)が長い間、アメリカに出稼ぎに行っていたらしいという話は知っていた。お墓参りもしたかったし、その話ももっと詳しく知りたかったので静岡県に住む、曾祖父の娘(僕にとっての大おば。現在84歳)であるNさん宅に十数年ぶりに伺った。
Nさんの話によると曾祖父(Nさんにとっての父親)は、明治末から昭和初期にかけて合計3回、20年間以上アメリカに出稼ぎに行っていたそうだ。この地区は戦前、北米に出稼ぎに行く人も多く、密航者もかなりいたらしい。曾祖父はアメリカに渡って最初農業を、次に鉄道作業員として各地を渡っていたらしい。Nさん宅に唯一残っていたアメリカ出稼ぎ時代の記録が上の写真の、曾祖父がアメリカから船便で静岡の家族宛に出した封筒(布でできていた)だった。封筒の上の肖像写真が僕の曾祖父。
封筒の左上に「FROM〜」と書いてあることから、ここが差し出し人の住所であり、「WYO」というのがワイオミング州の略称だというのはすぐに判明した。Nさんもこれには今まで気づかなかったそうだ。その次の地名は途中の文字が滲んでいて読みにくかったけど、いくつか適当なスペルで検索したら「EVANSTON」(エバンストン市)であることがわかった。wikipediaによると、ここは「歴史は西部開拓時代に遡り、西へ向かう要所として栄えた。東西から伸びてきた大陸横断鉄道が、1869年にこの地でつながったことから、大陸横断鉄道開通の地としても有名」な街だそうだ。
Nさんは父親から聞いた鉄道作業のエピソードを覚えていた。枕木を肩に乗せて運ぶ作業を、九州出身の出稼ぎ者と組み、「(枕木を)ここら辺りで置くまいか」と父が言うと、静岡弁では「置きましょう」という意味のその言葉を、九州の人は「置いてはいけない」と勘違いして困ったそうです。
曾祖父は娘たちの教育にこだわっていて、それは、「土地や金は失うこともあるが、身につけた知識は誰も奪えない」というのが持論だったからだそうです。当時、女性の進学がマレだったにもかかわらず娘たち全員の進学をアメリカから勧め、それに反対していた曾祖父の妻(Nさんの母親)と、一往復で数ヶ月かかる船便の手紙で悠長なケンカをしていたらしい。
他にも、日本では当時、食事中は黙って食べるという風習だったのを、アメリカ生活が長かった曾祖父は、「食事は、家族それぞれがその日にあったこと、思ったことを話し合う場である」とにぎやかに食べることを好んだり、「仕事をするときはどんな汚れた格好をしていてもいいけど、人と会うときは清潔な格好をしろ」とか、「人に何かをしてあげたときは、“してやったのに”などと見返りを期待するな。できることは何でもしてやれ」ということなども家族に何度も言い聞かせてたそうです。また、太平洋戦争が始まったときには「この戦争はアメリカが勝つ」と言い、「そんなことを言ったら憲兵にしょっぴかれる!」とNさんの母親を慌てさせたそうです。
ちなみに、Nさんは会話中にタライのことを「ワッシタプ」と呼んでたけど、それはNさんの父親が「washtub」と英語で言ってたので定着してしまったようです。