あきる野の思い出

5年前の日記を発掘。
明後日の日曜日、宮沢和史の弾き語りコンサートが東京都あきる野市であります(残念ながら僕は行けない。それにチケットは完売)。
同じ東京でも、僕はあきる野には一回しか行ったことがないです。それが5年前の7月。火山の噴火のために三宅島から避難していた子どもたちのための学校が、当時、あきる野市にありました。廃校となっていた秋川高校の校舎が彼らのために使われていて、2001年7月、その体育館でTHE BOOMのコンサートが開かれ、僕はそれを観に行ったのです。
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□ 2001年7月13日(金)
 僕はほとんど握手をしたことがない。海外を旅行してるときなんかは挨拶がわりに頻繁に握手するのだから、単なる日本には馴染まない、というヤツだと思う。なんとなく照れくさいし。例えば、僕はTHE BOOMのメンバーとはデビュー前のホコ天から、もう13年か14年の付き合いになるけど、宮沢和史と握手したことはたったの一度しかない。1996年のブラジルツアーで3週間ほど一緒に過ごし、最終日リオの空港でひとりだけアメリカに向かうMIYAを出発口に送ったときの握手が唯一のことだ、と思う。でも、ときどき、感動のあまりグワッと握手したくなる瞬間がある。今日がそうだった。
 目黒から山手線、中央線、青梅線五日市線を乗り継いで約90分。まだまだ強力な太陽が照りつける午後3時40分、僕は秋川駅に到着しました。今日、東京の最西部、あきる野市THE BOOMのコンサートが行なわれたのです。会場は駅からさらに車で10分の位置にある三宅高校(旧・秋川高校)の体育館。東京(ここも東京だけど)の感覚からすると「広大」と言える敷地の中に体育館はありました。メタセコイアの並木が続く体育館の入口の前には、小さい子から中学生、高校生、それにその家族と、多くの人がすでに開場を待っていました。主催のスタッフたち(ボランティアです)は黄色いTシャツ姿で、長机を利用した受付で特製のうちわを配っています。うちわには美しい花と「THE BOOM LIVE 風に乗れ、海を渡れ、三宅の思い」という文字が描かれています。これが招待状と交換されチケットの代わりとなるのです。コンサートに招待されたのは、噴火による全島避難で三宅島から、今年の春に廃校となった秋川高校で寮生活を送っている小・中・高校生たちとその家族です。
 ミニバスケのコート2面分ぐらいの広さの体育館のフロアには青いビニールシートが敷かれていて、子どもたちやその家族、高校生のグループなど約300人が座ったり、何台か置かれていた大型扇風機の近くで喋ったりして開演を待っていました。暑かったんです。すべてのドアや窓が開けっ放しとはいえ、体育館ですから。ステージの上に楽器がセッティングされてる以外は、まんま体育館。自然光が気持ちいいです。よちよち歩きの赤ちゃんから、おじいさん、おばあさんまで本当にいろんな世代の人が集まっていて、楽しいのです。昔、沖縄の伊江島の村営野球場で行なわれたTHE BOOMのコンサートもこんな感じでした。あのときは外野フェンスの真下しか日陰がなかったけど。
 メンバーが会場に入ってきたのは予定通りの4時30分。先頭は栃木さん。少し離れて、MIYA、YAMA、最後が孝至君の順番。体育館の入口から、フロアを縦断して(つまりお客さんの真ん中を歩いて)ステージまで辿りつき、階段を登り(このとき孝至君は背中でピースサインを出し)、まずは4人だけで「星のラブレター」を演奏しました。
「どうもありがとう。THE BOOMです。暑いですけど、今日は楽しみにやってきました」とMIYAが挨拶します。次はツアーメンバーも参加しての「TOKYO LOVE」。鶴来さんがソロを弾いてる間、ルイスさんはトランペットを左手に、右手のうちわで鶴来さんをあおいでいます。暑いんです。でもすぐ次のソロはルイスさんなんです。
 今日は1曲ずつ、演奏の前にMIYAが曲を紹介していきます。「そばにいたい」で、僕が好きなのは、孝至君がマイクの位置なんか関係なしに、ギターを弾きながらMIYAの歌にあわせて歌っている表情。音楽ってアンプを通して出てくる音が全てじゃないんだと思う瞬間です。「帰ろうかな」では、MIYAがステージから降りて、フロアの中を歌いながら歩いていきます。「僕の大好きな島、ジャマイカで作った歌です」という紹介に続いて歌われた「神様の宝石でできた島」。そして「風になりたい」では、曲名を告げた瞬間に拍手が起こりました。今福さんとMIYAのレクチャーで会場中、手拍子でサンバのリズムが始まります。胸に大きなイチゴが描かれたTシャツを着た中学生ぐらいの女の子がMIYAに誘われてステージに上がりました。スルドを叩くMIYAの横で、タンバリンでサンバに参加したのです。
「音楽が聞きたくなったら、いつでも呼んでください。飛んできます。それから、普通の生活が始まって、また音楽が聞きたくなったら島にも呼んでください。いつでも飛んできます」。
 最後の曲は「島唄」でした。イントロのギターで涙が出てしまったのはサンパウロでのライヴ以来かも。今日、この場所でこの歌は沖縄の「島唄」ではなく、誰の胸の中にもある自分だけの「島」を描く島唄でした。体育館の窓を抜けて、風に乗り、海を渡っていく歌……。僕はグッときたのでした。つまりこれがグワッと握手したくなる瞬間だったのです。アンコールの「箱根八里の半次郎」には笑ったけど。でも、本当に音楽っていいなと思ったのです。