ペルー 1989


当分、日記を更新しそうにないので、1989年11月の南米ペルーでの写真を貼り付け。左は弟。標高は3000メートル超えてます。リュックを背中ではなく腹のほうで抱えているのはペルーでの標準装備方法。ピックポケット(スリ)対策。
休暇は二ヶ月。最初の2週間はアメリカのサンフランシスコに滞在し(大地震に遭遇した→)、ここでペルーへの往復チケットを購入。チケットはマイアミ経由のリマ往復(30日間のFIXチケット)。帰りはマイアミに数泊し、またサンフランシスコで一週間余りを過ごすというプランでした。
初めての南米にペルーへ行こうと思ったのは、この前年、リュック・ベッソン監督の『ビッグ・ブルー』という映画を観て、その中のアンデスの高山列車のシーンに惹かれたからです。
主人公のジャック・マイヨールでもライバルのエンゾでもなく、ギリシアの海でもなくイタリアのママのパスタでもなく、高山列車とアンデスの人たちが登場するシーンに強く心を奪われました。映画の予告編(→)だと、17秒から21秒にその高山列車のシーンが出てきます。遠く離れた地に暮らす、言葉もわからない人たち(ケチュア語)だけど、なぜか懐かしく感じる。「なんなんだ、この感情は!?」って、そのとき不思議に思いました。
なので、地上絵で知られるナスカ(→その後、日本で「ナスカ展」に行った)やアマゾン方面には、同じペルー国内でもほとんど興味がわかなかったんです。山岳地帯、アンデスへの憧憬ありき。まずは首都のリマに着くことになるんだけど、そこから旧インカ帝国の首都だったというクスコという街まで行ってそこに腰を据えて、アンデスの人たちと会いたい。そんな希望を持っていました。
あー、マイアミ(田舎の温泉場みたいな場所です)からリマに着くと、街の明度にまず驚きます。震災前の渋谷と震災後の渋谷ぐらい違います。
そう、ペルーの首都リマに着いて最初の印象は、街の薄暗さでした。リマと比べたら、マイアミなんて煌々と輝く未来都市です。しかし、僕らはその薄暗さよりも、治安の悪さ(後述)に辟易しながら、リマに数日間滞在することになります。
ペルーの社会史には全然詳しくないけど、1989年のペルーというのは相当に政情不安な国だった、というのは肌で感じました。つーか、そういうの調べてから来るべきだった。または調べて旅行を断念するか。Wikipediaによれば当時のペルーは「失業率は実に66%」「インフレ率8000%」。その数字を知ると、唖然とする。
リマの宿では、まず荷物の持ち方から習いました。身体の前で抱えろ、と。ひとり旅ではなく弟が一緒にいたことにこれほど安堵したこともありません。ダウンタウンで不審な男たちに囲まれそうになったときも、お互いに声を出し合い牽制して抜け出したり。驚いたのは、アヤクチャという県ひとつを反政府勢力が掌握してるから、クスコに行くのに陸路は使えなくて、航路のみだとか。僕らは飛行機でクスコに飛びました。
クスコ。その昔、インカ帝国の都だった街。標高3600メートル。つまり富士山の山頂と高度はそんなに変わらない。飛行機から降りるとすぐに頭痛と吐き気に襲われました。酸素が薄いのです。弟にはなんともないらしい(一ヶ月ほどの滞在中、いちども高山病にかからなかった)。そんなわけで待ち望んでいた景色を味わう余裕もなく、タクシーで街の中心まで行き、重いリュックを背負ったまま宿を探しました。ぜーぜーしながら。安宿を探しに見知らぬ路地を入っていくことができずに、広場に面したこざっぱりしたホテルに決めました。それでも一泊15ドルです。
広場はクスコの中心です。近くに大聖堂があります。街はすり鉢状になっていて、中心の広場が底です。街は放射状に、丘の上のほうに向かって延びている。石畳に赤茶色い屋根。インカを侵略したスペイン人たちが作り替えてしまった街だろうけど、僕には長い歴史を感じさせる街の景色でした。夜になると家々や路地にオレンジ色の明かりが灯り、とても美しい。
このクスコに着いても、僕の本心は、(これまで書いてきた文章に透けているように)ペルーの治安が心配で、アメリカに戻りたくて仕方がなかった。それは前年のインドの旅とも違う恐怖だったのです。僕はスペイン語がまったくわからないけど、それでも毎日街角で売られている新聞から、どこどこでテロがあった、どこどこで爆弾が爆発した、というようなニュースを知り、脅えていました。リマに比べたらのんびりしているように見えるクスコでも、外国人旅行者を狙った首締め強盗があったという話も聞いたし……。とんでもない国に来てしまった、という後悔。ペルーに来た最初の一週間はとにかくそんなネガティヴな気持ちでいっぱいでほとんど楽しめなかったんです。
しかし、リマからマイアミまで帰りのチケットは一ヶ月後の日付が決められていました。変更不可。か、どうか航空会社に確かめにも行った。ならば、もう新たに片道チケットを購入してみたらどうか、とも計算してみた。持ち金不足。クレジットカードも当時は持っていなかったし。インターネットもない。郵便局は半年以上ストライキ中という信じられない状況(クスコの郵便局だけでなくペルー国内! だから郵便はこれから南米の他の国を旅するという旅行者に託していました)。不安と孤独感。ちゃんとそのうち慣れるんですけどね。
そう。恐怖なんて慣れます。だって、その恐怖の元は伝聞だけで、注意深くなった僕らには何も(幸運にも!)実害はなかったから。いちど落ち着いてクスコを眺めてみると、そこにはゆったりとした時間が流れ、のんびりとした光景が広がっていました。クスコはペルー(南米の、といってもいい)有数の観光地だから、外国人旅行者も(こんな時期なのに。ただしスペイン語圏の人がほとんどだった)少なくない。でも彼らを目当てにしたうさんくさい商人なんてほとんどいない。彩り豊かな民族衣装を着た先住民たちが、広場でアクセサリーを売っています。一瞬も隙を見せられないリマの都会とは違う時間が流れています。
路地に入ると、インカ時代の石畳がそのまま残っています。博物館ではなく、誰もが触れられる通りに。僕らには時間がたっぷりあったので、この街を歩きに歩きました。弟はスペイン語を数字から覚えはじめ、すぐに両替の交渉を担当するようになりました。お土産屋をあらかた覗き、丘の上の遺跡まで足を伸ばし、日に何度もカフェに入りました。暇なときは唯一持っていた日本語の本、南米のガイドブックを(行く予定のない国のページまで!)読み返していました。
マチュピチュにも行きました。憧れの高山列車に乗ってクスコから約10時間かかる(その間に僕は高山病で吐きました)プーノという街まで行き、チチカカ湖で葦でできた浮島に暮らす人たちに会いました。そしてまたクスコに。僕らはクスコが大好きになっていました。2003年には、クスコを再訪するのです。(つづく