Duma Key

キングのこの小説の主人公は57歳。ミネソタで建設会社を経営。しかし不慮の事故で片腕を失い、腰骨も激しく損傷し、脳機能に障害を持つ。リハビル中の病院では、自己を抑制できなくなり、不適切な言語が意に反して飛び出し、看病する家族を傷つけ、妻は彼のもとを去っていく。主人公はフロリダの孤島、デュマ・キーに家を借り、そこでひとり療養生活を送る。
主人公はこのデュマ・キー(※この作品の原題。どうして邦題では「悪霊の島」なんていうB級ホラーのタイトルになってしまったんだろう)という島の、彼が「ビッグ・ピンク」と呼ぶ家で、それまでにはなかった才能が突然開花する。絵を描くこと。欠落を埋めるように、彼は絵を描き続け、それがデュマ・キーの「闇」に通じ、現実世界に不思議な力を作用させることが、次第に判明していく。島の住民は彼を入れて3人のみ。それぞれが別々の欠落と、特殊な能力を持つ。
〈「デュマ・キーでは、どこかが壊れた人間こそが特別な人間になるようだ。壊れた状態から脱すれば、その人間は特別であることをやめる。たとえばわたし……そう、わたしは修理されたんだ。きみはいまもって壊れたまま、だから特別な人間のままだ」〉
久々のキングのこの大長編小説には、下巻の解説に書いてあるとおり、1999年にキングが負った交通事故(復帰不可能説も当時はあったし)の影響も読みとることができるし、記憶の混在や単語を取り違えてしまう苦しみは、僕もかなりの共感をもって想像できる。
〈わたしはケイメン(※精神分析医の名前)に、昔は絵を描いていたが、もう長いこと描いていないと答えました。ケイメンは、また描いてみたらいいといいました。その理由をたずねると、ケイメンはわたしには夜の闇を近づけないためのフェンスが必要だからだ、といったのです。最初はその言葉の真意がわかりませんでした。わたしは途方に暮れ、混乱し、苦痛にあえいでいたからです。いまはもっと理解できます。人々は“夜が降りてくる”といいます。しかし、こちらでは夜は昇ってきます。夕焼けの時間が終わったあと、メキシコ湾から昇ってくるのです。この現場を目のあたりにしたことは、わたしには大きな驚きでした。ふたつの人生をつなぐ橋をわたっているあいだにわかってきたのは、ときにあらゆる予想に反しても美が育つ場合がある、ということです。しかし、この考えはとりたて独創的ではありませんね? むしろ陳腐な考えといっていい……たとえば、そう、フロリダの夕陽のように。しかしながら、これはたまたま真実であり、真実であればこそ、言葉に出す値打ちもある……もしも新しい方法をつかえば、という条件つきで。わたしはそれを絵であらわそうとしました。〉
欠落と創造との関係が、『悪霊の島』の裏のテーマになっている。だからこそこの作品は(キングのホラーとして特に新しい趣向があるわけではないが)、心に強く訴えてくるものだある。
アンソニー・ホプキンスが「私は精神の暗部に惹かれる。人間の最も創造的な部分だからだ。精神の暗部を否定すれば人生はつまらなくなる」といっていたように、精神の暗部が、闇と光に感応し、創造をする。この主人公には、絵を描く才能が現れた。しかし、その代償に彼は片腕以上のものを失う(ホラー小説の宿命だ)。十字路でギターの才能を魂と引き換えに手に入れたロバート・ジョンソンみたいに(これは伝記)。
僕にはなにがあるんだろうと考える。失ったものとひきかえに「何か」を獲得することはできるのだろうか。
小説の重要な登場人物ワイアマン(彼は箴言の宝庫だ)の言葉、「現実には芝居は五幕まであるんだ―――アメリカ人の人生に限った話じゃない―――まっとうに生きているすべての人の人生にあるんだよ。おなじことが、シェイクスピアのすべての芝居にもいえる―――悲劇であると喜劇であるとを問わずにね、なぜなら、それこそがわれわれの人生をつくっているものだからだ―――喜劇と悲劇がね」という通り、新たな幕が在ってほしい。