「欠落」というちょっとやっかいなものについて

昨日の「VEGEしょくどう」で、僕はメキシコのビールを飲みながらご飯を食べていたのだけど、食後にお店のカウンターに置いてあったピッチャーに入った水を頂いた。ピッチャーにレモンや炭を入れている店もあるけれど、ここではミントの葉だった。それもとびっきり香りの強いミント。
キューバで初めて飲んだモヒートという庶民的なカクテル(キューバ特産のホワイトラムにソーダ水、砂糖、それにミントの葉がぎっしり漬けられている)を思い出すほどの、生命力が強そうなミントだった。
僕はビールと、ミントの効いたその水を交互に飲みながら、同席していた友だちと話し、大切な「気付き」をもらった。
アンテナが歪んでいても、受信した「よくないもの」を、洗濯機の裏に付いているアースみたいなもので、どこか他に放流してしまうことが大事。僕は「歪み」を自分の中に溜めすぎ(ほんとにくだらないことを気にしてた)。沈殿して、循環していかない。
〈ぼくという人間は、自分ではある程度病んでいると思う。病んでいるというよりは、むしろ欠落部分を抱えていると思います。人間というのはもちろん、多かれ少なかれ、生まれつき欠落部分を抱えているもので、それを埋めるためにそれぞれにいろいろな努力をするのですね。僕の場合は、三十過ぎてものを書きはじめて、それがその欠落を埋めるためのひとつの仕事になっていると思うのです。ただ、埋めても埋めても、これは埋めきれるものではないですよね。だから、最初はうまく、簡単なもので埋まられるのだけれど、次第に、どんどん複雑にしていかないと埋められなくなるということになってくるのですね。〉
村上春樹村上春樹河合隼雄に会いにいく』より)
僕のやっかいな「調子っぱずれ」は、この「欠落」にうろたえ、傷つくこと、何かをしでかしてしまうことを怖れて、自分で自分を閉じこめてしまうという閉塞した状態に進んでしまい、そのうちその闇の中で膝を抱えて諦めてしまいがちだ。
でも、「欠落部分」は誰もが抱えている。特別なことじゃない。普段は気が付かないだけ。そこは古井戸のように、ちょっと視界の外れにあって、枯れ草で覆われていたり、立て札で注意が促されたりする。僕は気が付いたらその井戸の底にいた。だけど、そこから外に出たい。出てもまたちょいちょい落ちてしまうのだけど、枯れ井戸の底で膝を抱えていたくない。
〈ひとつ確認しておきたいのは、欠落そのものは(あるいは病んでいることは)人間存在にとって決してネガティブなものではないということです。欠落部分というのはあって当然です。ただし人が真剣に何かを表現しようと思うとき、「欠落はあって当然でこれでいいんだ」とは思わないものです。それをなんとか埋めていこうとする。その行為に客観性がある場合には、それは芸術になることもある。そういうことです。〉
(同『村上春樹河合隼雄に会いにいく』より)
歪みも欠落も、僕にはまだある。だから歪んだアンテナにはペグでの固定と、よどまないように地面に流すアースを。何度もはまってしまう井戸には這い上がるためのロープを準備しておこう。映画『バットマン・ビギンズ』の中のセリフ、「人はなぜ落ちるのか。それは這い上がるためにさ」は、僕を勇気づける。
昨日、友だちと会ったこと、『1Q84』の読後に、この本を13年ぶりに再読できてよかった。