トリバタケハルノブ×三保航太

「その人の持っているモノが時代とマッチしないのか、単なるヘタクソなのかはそれぞれだけど、どちらにしろ好きなこと(だけ)やって食べていく方法は探せばあると思うんです。本当に他の生き方をしたくなければ」


トーキョー無職日記

トーキョー無職日記


『トーキョー無職日記』の著者であるトリバタケ ハルノブ君と僕が初めて「会った」のは1997年頃だったと思う。
小沢健二がCDシングルを連続でリリースしていて、中村一義が『犬と猫』でデビューした頃。「会った」場所は、小沢健二のファンサイトのチャットだった。インターネットがようやく普及し始めた時期で、23時から朝8時までの「テレホーダイ」の時間になると、僕らはそのチャットに集まり、音楽を中心にいろんな会話(たいていはスクロールとともに画面からも記憶から消えちゃうような内容)をしていた。当時、小沢健二は自分のラジオ番組を持っていて、そのオンエアが始まるとネット局がない地域に住んでるファンのためにチャット上で、彼の発言を文字で中継さえしてた。「ある光」という新曲が初めてオンエアされたときは、その歌詞がすごい勢いでアップされ、あやふやな箇所がフォローされていった。いまでも覚えているのは、〈JFKを追い〉の部分だ。誰かが「JFK」とはニューヨークの空港だろうと知識を披露した。でもそのあとの助詞、それに続く動詞は「降り」ではないのかと、意見がわかれた。
とにかく、僕はトリバタケ君とそんなネットの片隅で出会った。彼は当時、名古屋の大学生で、僕は東京で音楽事務所で働いていた。
今年1月に上梓されたトリバタケ君の連作四コママンガ本『トーキョー無職日記』(飛鳥新社)は、そんな場面から始まる。あまりラブリーとは言えないキャンパスライフ。いや、そもそも大学にはほとんど行ってなかったというひきこもり的な彼の学生時代、「外」との繋がりは深夜のインターネットだけだった。そんな彼が葛藤のうちに大学を中退し、マンガ家をめざし上京して、絵を描き始める。東京でも逡巡に満ちたトリバタケ ハルノブ的な「まんが道」が、『トーキョー無職日記』で展開される。
同じように大学を中退して(僕の場合は「早退」と言ったほうが正しい)、不安で眠れぬ夜に布団の中から天井を見上げながら、行き先を示唆してくれる星を探していた僕にはとても共鳴できる日々が描かれている。それに僕もこの本の中に、トリバタケ君に初めてマンガの仕事を発注する編集者として登場しているのだ。
それじゃあ、(またもや『僕とうつとの調子っぱずれな二年間』の筆名での)インタビューです!(三保航太)
  三保航太  先日、5、6年ぶりぐらいに吉祥寺で会ったんだよね。トリバタケ君の「むつみ荘日記」が本になること、1月に上梓されたことはmixiで知っていたのだけど、自分も同時期、本を書いていたので、影響されそうなものはぜんぶ遮断してたんです。だから、『トーキョー無職日記』を購入したのは4月。読んでみて、すぐに会おうって連絡しました。
トリバタケ君とチャットで知り合った10年前の僕らは胸を痛めながらオザケンなんかを聴いてた、なんてことが鮮やかによみがえって。当時のトリバタケ君の印象は、ウィットに富んでながら、慎重なところもあるというものでした。だから、大学中退、上京というのはかなりの決意だったでしょ?
トリバタケ ハルノブ  決意っていうと大げさですけど……って言おうと思ったんですけど、やっぱり当時の自分からしたらすごい決意でした。僕の実家はすごく仲良いんです。自分で言うのもなんだけど、理想の、フツーの家族。自分がそこの長男だから、都会に出てもいつかは実家に帰らなきゃいけないっていうのはずーっと思っていて。別に由緒ある家柄でもないんですけど、それが、大好きな父と母の希望だったので。
言葉にするとあまりにも普通で陳腐なことのようですけど、実際その縛りはものすごく大きかったです。毎年実家に帰ってますけど、未だに自分が親不孝したっていうキズはしくしくと痛みます。
あとはやっぱり自分には才能がないんだとずっと思っていた。自分みたいなものが東京に行ったところで……ってずーっと自分に言い聞かせてたから、「才能ないじゃん」っていう自分を振り切って「でも行く!」って思った瞬間が決意といえば決意です。
逆に言えば高校生からずーっと東京に行って絵の仕事がしたかったってことですよね。両親のせいや才能のせいにしてた、って言い方もできるかな。
三保さんと知り合った頃は特に悩みの深かった時期でした。自分はなんなんだろう、っていう若者らしい悩みなんだけど、ちょっと方向を間違えてどん詰まってましたね。だんだん学校に行くのも苦痛になってきて……。部屋に引きこもって本を読んで音楽を聴いて、そういったものに感動しながら、自分にはできることがないーってまた深く落ち込んだりして。
なにかを表現してみたい、でも自分にはその才能がないみたいだ、っていうとこで行きつ戻りつしてたんです。
そんな時期に出会ったインターネットは本当に革命的だった。ちょっとしたHTMLを覚えるだけで、絵や文章を世間に向かって発信できる。今まで周りに通じなかった小説や音楽の話ができる人が集まってる場所がある。 買ったパソコンはMacだったんですけど、インターネットは真っ暗な穴蔵に突然できた「窓」みたいだった。
世の中には楽しいことがたくさんあるらしい、そしてそこに自分が参加してもいいらしいって思えたんです。窓から光が差して、外にそういう景色が見えたんです。そこに三保さんもいらっしゃったわけです。
三保航太  覚悟を決めて上京したんだから、すぐに自分のイラストやマンガのファイルブックを編集部などに持ってまわるとか、雑誌のマンガ賞投稿の準備をしていたのかと思ってたんだけど、何をやっていいのかわからない日々が続いてたんだね。『トーキョー無職日記』を読んでいてもあの時期はきついね。不安との折り合いの付け方はどうしてたの?
トリバタケ ハルノブ  上京したらすぐイラストやマンガを持ち込むっていう考えは元々なかったです。「覚悟を決めた」っていうのは「絵を描くぞ」っていう覚悟じゃなくて、「これからは自分の思ったとおりに生きるんだ」っていう覚悟だと思います。
自分の意志で生まれ直した赤ちゃんとして、ヨチヨチあるきで東京に出てきたという気分だった。
絵に関しては、しつこいようですけど自分には才能がないって思ってましたから、まず持ち込みしたり投稿したりしてる人たちのレベルにならなきゃっていうのがあって。
1〜2年はバイトしながら絵の練習するんだと思ってました。どうすれば絵が上手くなるのかはわからなかったけど。むしろ不安だったのは東京でうまく生活の基盤を作れるかっていうところでした。新生活をはじめるんだから当たり前なんですけど、持ち前のマイナス思考が……。
折り合いのつけかたはここでもインターネットでした。インターネットの人たちはみんな優しかった。仲良しごっこ、馴れ合い、キズの舐めあいみたいなところもありましたけど、傷ついた気持ちを癒す場所として、ネットっていう逃げ場所があってよかった〜って当時から思ってました。
未だにそうなんですけど、僕はつらくなったらさっさと逃げちゃうんです。マンガにも描いたんですけど、高校の時にいっしょに専門学校に行こうって言ってくれた友達がいて、でも僕は自分にはその先なにかのプロになれるほどの才能がないと思ってたから、大学に逃げちゃった。大学に来たら授業から逃げて引きこもって、東京に来たのだって〈地元に帰って就職〉という現実から夢に逃げたみたいなものです。
上京してからの毎日が今までちょっと違ったのは、そういう逃げ場所に身を潜めつつ「それでもなにかできることはないか」って考えるようになったことですね。
三保航太  『トーキョー無職日記』のタイトルにある「無職」というの正確に言うとこの時期のことなんだよね。僕の家の近くの書店には、松本哉さんの「素人の乱」本や格差問題、プレカリアート系の棚に置いてあったけど、派遣切りとかネットカフェ難民の体験記とは違う。東京でもトリバタケ君はインターネットを通じて新しい友人を作り、また友人のつてでアルバイトの生活を始める。絵を本格的に描き始めるのも、そんなネットで知り合った友人からの刺激によってだよね。
僕は当時編集者として、『トーキョー無職日記』にも出てくるトリバタケ君の友人のイラストレーターに、あるフリーペーパーの表紙イラスト連載という仕事をお願いして毎月会うようになってたんだけど、しばらくしてトリバタケ君も、某ファストフードチェーンのイラストを描く仕事が決まったんだよね。
トリバタケ ハルノブ  「無職日記」っていうのは編集の方のアイデアで後からついたタイトルなので、そこに関してはなんて言ったらいいのか……書店の置き場に関しては申し訳ないような気持ちがします。
ただ、アルバイト状態を「正規に就職してない状態=無職」として考えるのであれば、同じような不安を持つ人はいつの時代にもいるだろうなと思います。実際、若い人からの反響と同じくらい、三保さんやもっと年上の方からの反響があるんです。「なつかしい」って。時代や状況が変われども、心の闇に沈んでたり、そこから抜ける道を模索している若者はずっといるみたいですね。
ファストフードチェーンの仕事、ありましたねえ。懐かしいな。
三保航太  それはやっぱり自分のサイトを立ち上げて、作品をアピールしていったのがきっかけだったの? それともイラストレーターやデザイナーならみんなが経験しているという、いろんな編集部への持ち込みを重ねていった結果?
トリバタケ ハルノブ  『トーキョー無職日記』は自分の体験を元にしつつも創作の部分があったり時系列が入れ替えてあるのでややこしいんですけど、実際にはファストフードチェーンの仕事は三保さんの紹介だったんですよ。そのときはじめてイラストの持ち込みを経験しました。
今思えばどうして当時の自分の実力であの仕事がいただけたのか……担当の方にも最後までずーっとダメだしされましたし。
でもその何年か後にその方の紹介で別の仕事が決まったり、最近またその方と仕事してたりしてるんです。僕は今もほとんど持ち込みはしてなくて、そういった人の紹介で仕事が繋がっていった感じです。
サイトのイラストを見て、っていう方もいらっしゃいますけど、どちらにしろあんまり自分からグイグイ行くほうじゃないんで、持ち込みしなくても仕事が来たっていうのは恵まれてると思いますね。
三保航太  えーー、僕があの仕事を紹介したことなんて完全に忘れてた! 僕も昔からの知り合いだったトリバタケ君の作品をちゃんと見たくて、いちど僕が勤務してた音楽事務所の近くで会おうと決めたのに、駅に着いたという電話からいくら待ってもトリバタケ君は現れない……。相手が道に迷って打ち合わせがなくなるというのは初めての経験でした。他にもライヴハウスに入場できなかったという事件もあったよね。
トリバタケ ハルノブ  あはは、その節はすいませんでした。それが三保さんが持ち込み先を紹介してくれる、っていう日だったんじゃないかな。
元々某ファストフードチェーンのお仕事は三保さんの別の知り合いのイラストレーターの方が担当するはずだったんですけど、なにかの都合でできなくなっちゃったんですよ。それでその代役として、僕に持ち込みに行ってこいって話で。
目黒川の橋の上で待ち合わせだったんですけど、道に迷って一本向こうの橋でずーっと待ってた。
ライブハウスの件もありましたねえ。ゲストとして招待してもらって……。僕そのとき全然お金なくて、あわよくばライブ後、三保さんにご飯おごって貰おうとか考えてたんですよ。そしたらゲストもドリンク代500円が必要で、僕はその500円すら持ってなかった。帰り道、自転車漕ぎながら情けなかったなあ。
三保航太  さて、『トーキョー無職日記』のハイライトだと勝手に僕が思ってるエピソード。念願の初マンガを描くのが、僕からの発注だったことも、申し訳ないことに僕はすっかり忘れてました。THE BOOMの曲からなんでもいいので一曲選んで、その曲をモチーフにオリジナルの2ページマンガを描いてほしいというリクエストだったんだよね。トリバタケ君が選んだ曲は「中央線」。
本を読み進めていて、展開的にもしかしたら僕も出てくるのかもと思ってたけど、自分が、「普通のオジサン」然とした姿で出てきたので驚いた!
『僕とうつとの調子っぱずれな二年間』でも最初、僕の姿はムーミン的な動物にされかけてたし。いまは「サブ4」のマラソンランナーなのに。
トリバタケ ハルノブ  ここもちょっと時系列入れ替えになっちゃってるんですけど、三保さんからマンガの依頼をいただいたのはファストフードチェーンの仕事の前です。
つまり初仕事・初マンガ共に三保さんからの発注だったんです。三保さんとの出会いは申し訳ないんですけど本当にマンガに描いたとおりで、田舎モノの僕にとって「音楽業界で働いている人」っていうのは大スターだったんですよ。
今考えると笑っちゃいますけど、本当にミュージシャンのステージ衣装みたいな人が来るんだと思ってた。そしたら普通の……ムーミンみたいなオジサンがやってきて。
そんな三保さんが今や「サブ4」のマラソンランナーなんだから人生ってわからないですね。オジサンは失礼だったかな。今は僕があの頃の三保さんの歳になっちゃった。
三保航太  その初めてのマンガを描くことに苦悩するシーンは、創作の苦しみがとても伝わってくるね。僕のの大好きな映画『クワイエットルームにようこそ』でも、主人公の内田有紀が、ライターになって初めての連載で、「たった800字のコラム」が書けなくてオーバードーズしてしまうことから始まるんだけど、僕も文章が書けなくて七転八倒することあるからすごくわかる。それに、トリバタケ君は結果的に僕の想像を超えたマンガを描いてくれた。
トリバタケ ハルノブ  なにせほとんど初めて描くマンガでいきなりお金を貰っちゃうんですから、プレッシャーがすごかったです。そんな状況ってなかなかないですよ。やったことないことだから、自分の中に完成型が見えてないんですよね。コードもリズムもわからないのに作曲するような……。
今でもあのときのマンガはとってありますけど、笑えないくらい下手ですねえ。当時読んでたマンガの影響をモロにうけてたりとか……完成型がないわけだから、自分の中にフォーマットがないんですね。でも、その分わけのわからない一生懸命さみたいなのは漂ってる気がします。
今の仕事では自分に出来ること、出来ないことっていうのはしっかり範囲を決めているし、発注してくれる方も「おそらくこういうものが出来てくるだろう」という予測で仕事を下さってるので、ああいった苦労はないんですけど、自分でもよくわからないものが出来ちゃった、っていうようなことも少ないですね。
だからときどき友達のお店のDMとか、イベントのフライヤーなんかを好きなように手伝わせてもらうようにしてます。その度に悩んじゃって、「やるんじゃなかった」って思うんですけど。
三保航太  『トーキョー無職日記』で励まされたという読者からの反応も多いでしょ? 原題の「むつみ荘101号室」からどうしても藤子不二雄の『まんが道』(「トキワ荘」というアパートが舞台)を連想してしまうんだけど、あの偉大なる先人たちと同じように、トリバタケ君を支えていたのも、あがいた末に得た友人たちだったと思う。
もちろん『トーキョー無職日記』を読んでもらうのがいちばんだけど、いま、無職でなくても、自分の未来に悩んでいる人が横にいたらトリバタケ君はどんなアドバイスをしますか?
トリバタケ ハルノブ  ホントに、思った以上の反響がありました。励まされたっていうものから、僕なんかには答えられないよっていうようなディープな人生相談まで。
でもそれって、僕が大学生の頃に三保さんや他の年上の方々と夜な夜なチャットしていた状況に似てるなあって思ったんです。あのときの雑談の中に、自分にとってはすごくためになる経験談や励ましがたくさんあった。その順番が自分に回ってきたのかなと思うし、そういう循環(サークル)の中に自分が入れたような気がして、すごく嬉しかったです。
今、自分の未来に悩んでいる人がいたら……悩みの質にもよるんですけど、それが昔の僕みたいな人だったら、「スゴいなにものか」を目指さなくてもいいって言うと思います。当時の僕はマンガ家もイラストレーターも、世間的に名の知られている人しか知らなかったし、そうならなきゃいけないんだって思ってたけど、実際世に知られてないマンガ家やイラストレーターはたくさんいる。残念ながら今の僕がそうだし、音楽とか、他の世界でもそうだと思います。
その人の持っているモノが時代とマッチしないのか、単なるヘタクソなのかはそれぞれだけど、どちらにしろ好きなこと(だけ)やって食べていく方法は探せばあると思うんです。本当に他の生き方をしたくなければ。
イラストレーターとしてまだ10年くらいしかやってない僕が言うのもおかしいかもしれませんけど、ずっとそう思って仕事してきましたし、これからもそのつもりです。
それにはやっぱり外に出たほうがいい。部屋の外、自分の外。家族の外。友達関係の外。あのチャットも東京に出てきてできた友人も、部屋で真っ暗な天井見ながら「おれはダメなんだ〜」って思ってるだけじゃ出会えなかったんです。そして出会った人たちは、その場所以外にもそれぞれたくさんの関わりを持っていて、僕はそれがすごくうらやましかったし刺激になりました。それで、もっと外へ、広い世界へ、って思えるようになった。自分の内面っていうか、どんなやつかは4年、高校生の頃を精神的ひきこもり期としたら7年ひきこもって、もう十分わかったので。恥ずかしかったり痛い目みたりもしますけど、部屋でぐずぐず死んでることに比べたら随分マシです。
だから三保さんが本の中で引用されてた、いとうせいこうさんの「暗示の外に出ろ、俺たちに未来はある」っていうのはいい言葉だなと思いました。外に出て、探す、っていうのが楽しい。あっ、アドバイスはこれかな。
「『暗示の外に出ろ、俺たちに未来はある』、……ダメだったら逃げればいい。」
トリバタケ ハルノブ  イラストレーター、漫画家。
2009年1月、『トーキョー無職日記』(飛鳥新社)を上梓。
関連インタビュー
三保航太×はらだゆきこ 『僕とうつとの調子っぱずれな二年間』
http://d.hatena.ne.jp/tuktukcafe06/20090607