憧れの地


旅行関係のmixiコミュニティに入ってると、「卒業旅行にどこかお勧めの国ありますか?」などというトピックを立てる人たちが頻繁にいて(「夏休みにどこか〜」とか「新婚旅行には〜」バージョンとか)、ちょっとびっくりしてしまう。行きたいところに行けよ。行きたいところがなければ行くなよ。なーんて偉そうなこと言うけど、僕も旅行代理店で「来週どこか行けるところないですか?」と訊いてチケットを買ったことがある。
でもまあ、旅の理由というのはその地への憧れだ。
僕の場合は圧倒的に文学や映画や音楽の影響。僕が最初に異国の地を踏んだニューヨークは、サリンジャーの小説「ライ麦畑でつかまえて」や、佐野元春のアルバム「VISITORS」があったからだろうし、ミシシッピー川を見に行ったのはマーク・トゥエインの「トム・ソーヤーの冒険」だし、サンフランシスコで仕事を見つけたのは、そのものずばりのフレーズがある佐野元春の名曲の影響があると思う。って、最初の旅がそんなアメリカ大陸横断半年の旅になってしまったのは、子どもの頃はやはり「アメリカ」というのがとても大きな存在だったからだ。いま思えば。
1987年、ニューデリー着、カルカッタ(いまはコルカタ?)発の一ヶ月FIXのチケットを買ってインドに行ったのは、沢木耕太郎の「深夜特急」の影響に他ならない。しかしインドは想像以上に、ある意味、想像と同じようにつらかった。
一ヶ月の旅行期間の真ん中、約2週間、僕はインドの喧噪から逃げるために、乗り合いバスでネパールに行った。インドの聖地ベナレスからネパールの湖畔の町ポカラまで一泊二日のバスの旅は、インド国内の鉄道の旅と比べても決して易しくはなかったけど、ヒマラヤを臨むポカラでは心底ほっこりした。
このネパールが僕にとってはガイドブックを持たない初めての旅。だってもともとインド以外の国にこんな一ヶ月しかない期間で行く予定なんてなかったからだ。旅にガイドブックを持って行く人をバカにする人がいるけど僕はそんなことできない。まあ地図を持っていても道に迷うのが常なんだけど。宿だって21世紀になってからは事前に予約するようになったし。
でも当時はいろんな人に訊ねながらあちこちを重い荷物を背負って歩き、宿の交渉を繰り返すのが旅だと思ってた。バスや列車から降りて、群がってくる客引きを振り切り、歩き出し、宿を探す。その繰り返し。なんという時代。
いまはガイドブックがなくてもインターネットがあれば(インドでもネパールでも旅行者が行くような町にはどこにでもインターネット屋がある)旅の情報が日本語で手に入る。数年前、タイからビルマにちょっくら国境を越えたときにタイのガイドブックをビルマの食堂に置き忘れて、僕は「ガイドブックなし旅」を久々に行なうはめになり、一瞬ワクワクしたものの、なんか自然にインターネット屋を見つけて入り込み、情報を検索して次の町で泊まる宿を予約してた。インターネット依存症じゃん。
で、インターネットなんてなかった1987年の話。
ポカラでそうとうほっこりしたあと、せっかくならネパールの首都カトマンドゥまで行こうと、また乗り合いバスで10時間ぐらいかけて移動した。安宿街の名前をポカラで聞いていたのでそこに行き、適当なゲストハウスに泊まった。当時のカトマンドゥは欧米のバックパッカーが集まる場所だった。ロンドン発カトマンドゥ行きのヒッピーバスがあるという噂も聞いたことがある。
夜店に飾ってあった、幻想的な色の霧の中に浮かぶ建造物の写真に僕は心奪われた。「キタノブルー」と言ったほうがわかりやすい色かも。そしてその建造物とはチベット・ラサのポタラ宮殿だった。その写真を見た瞬間からラサが、ポタラ宮殿が僕の憧れの地となった。
これも前にどこかで書いたけど、当時、カトマンドゥにたむろしてる外国人バックバッカーの多くもチベットに憧れていた。でも、ネパールからチベットの国境を外国人が越えるのは相当に大変なことだった。チベットからトラックの荷台に乗ってカトマンドゥに入ってきた旅行者は、ヒーローだった。カフェとか食堂で彼らの話を聞いた覚えがある。僕はそのときは帰りの飛行機の便が決まっていたので(その飛行機に乗るためにまたインドに戻るのかと思うととても憂鬱だった)、チベットに行く時間がないのはわかっていたのだけど、「いつかラサに行くのだ」と誓った。
しかし、時は経ってしまった。あれからもう20年以上も過ぎた。僕は当時より、足は速くなったし、ヒマラヤの薄い空気にもなんとか対応できそうな肺活量も手に入れた。でも確実に20歳以上年を取った。そしてチベットは変わりつつある。もっというと「チベット」は奪われつつある。僕はまだチベットに行っていない。
数日前、世界各地で同時多発的に「FREE TIBET」を求めるデモが行なわれた。その映像を編集した数分の動画をインターネットで見た。それはイラク戦争開戦時にマイケル・ムーアsystem of a downのために作った、世界中の反戦デモ映像を編集したビデオクリップを僕に連想させた。
東京でもワルシャワでもサンフランシスコでもダラムサラでも世界中で「FREE TIBET」の声があがっている。映像の最後にはTIBET belongs to TIBETANSという文字があった。チベットチベット人のもの。