「ファンタジー」

 つぎの話は、ひょっとして役に立つかもしれない。
 私のもと学生で、解離性同一性障害(いわゆる多重人格)と診断された学生がいます。その後すっかりよくなって留学し、いまはちゃんと社会として仕事を続けている。その学生とは、約二年ほど持続的にカウンセリングをしていた。あるころから、回復の兆しがあり、どんどんよくなっているなと感じていたころ、ある日学生が来てこういいました。
 「先生、自分はもう大丈夫だと思います」
 それほど予想外でなかったけれど、「どうしてそう思う?」と私。学生の答えがなかなか興味深い。
 「これからも多少調子が悪かったりすることが起こると思うけど、もうこれからはいろんな気持ちが起こってきても、もうそれはファンタジーだと思える、という確信があるんです。だから、もう大丈夫だという気がするんです」
 もともと精神分析現象学の考え方もよく理解する、とても知力のある学生だったが、自分で自己分析を進めて、あるとき自分の病気の核にコツンとぶつかるところまで行きついた、という感じでした。
 「ファンタジー」という言葉は、二人の間でよく使っていた言葉だけれど、ふつうに言うと幻想、妄想です。神経症など、心の病になると、人は過剰な感情に襲われる。(後略)
竹田青嗣『中学生からの哲学「超」入門』より)
でも、この、コツンとぶつかって、発見してからが難しい! この本の別の場所で著者は、「真の原因であるものと、それがなければ原因が原因たりえないものとを区別すること」というプラトンの言葉を引用して、本質を取り出す重要さを書いているけど、調子っぱずれを「ファンタジー」(=歪み)だと自己認識しても、そこでスコンとそれが治るわけではない。
何しろ「原因」なんてものはよくわからなくて、そのよくわからないものに左右されるのが心の病で、確かに調子っぱずれが「ファンタジー」だと思えれば、ひどい衝動に取り憑かれて取り返しのつかない行動をすることはない。ないだろうけど、それだけで症状が解決するわけはないから、問題はその次のステップに移る。歪んだ自己は、自己承認と相互承認を少しずつ強固にしていくことで修正されていくはずだと僕は考える。その方法のひとつとして、あるいは「ファンタジー」を超えるものとして「フィジカル」があると思う。僕にとっては「走る」こと。それが自己承認につながる。というか、つながりつつある。いや、つながって欲しいなあ。心はもろいけど、少なくとも身体は頑健というほうが、「両方とももろい」よりは全然いいじゃないか、という自己承認。