『週刊金曜日』に感謝

雑誌『週刊金曜日』7月31日号に、『僕とうつとの調子っぱずれな二年間』の書評が掲載されていました。ありがとうございました。以下、無断転載させていただきます。
状態を受け入れ向かい合い共存する
五所純子/文筆業
 先進国に類を見ず、年間三万人を超える自殺者を十年以上にわたって数えつづけている異常な様態のこの国において、鬱状態が全体的に常態化しているのではないかという気がすることがある。たとえば都市部の満員電車で人身事故に遭遇した折、あるいは歩道の端に横たわる人間を前にしたとき、背後から悲鳴のような音を耳にしたとき、人びとは無関心を決め込むというよりも、もはや反応を忘れた身体になってしまったようである。ささくれ立つ緊張を帯びた悲しみのようなものが果てしなく蔓延している。
 本書は、四一歳の音楽系編集者の鬱病生活を、漫画と文章双方から描いたものだ。罹患の原因は離職とも読めるが、ここではさほど重要ではない。自分でも理解しがたい無気力と先の見えない療養の、その果てしなさのなかで回復されてゆく生活が緩やかに焦点を結ぶ。仰々しく「鬱」と記さず、柔らかく「うつ」と書く。専門書を片手にしかつめらしく格闘する疾患ではなく、状態そのものを受け入れることで向かい合い共存する。
 自身の「うつ」をおぼえる人は元より、周囲の「うつ」を理解しがたい人にこそ読まれたい。病状を図解した吾妻ひでおのようであり、また、フィッシュマンズ佐藤伸治の逝去という九〇年代を締めくくるようなエポックなど、時代のムードが刻印された本でもある。「終わりのはじまり」という修辞句をあたえられた九〇年代を通り過ぎ、今、二〇〇〇年代も終盤に差し掛かっている。「俺たちには未来がある」(『解体屋外伝』いとうせいこう)を高らかに引用する本書は、「終わりの終わり」を宣言しているのかもしれない。
『「あとがき」はない』で書いたように、「共存」しているんだと思います。僕は、「鬱」を「うつ」よりもさらに柔らかく、「調子っぱずれ」と記したい。それは、「無関心を決め込むというよりも、もはや反応を忘れた身体にな」るのとは逆です。過敏に反応してしまうし、そこから逃れるためにシェルターに閉じこもる、というのが僕のこの状態です。でも、向き合い受け入れることで、はじめて「先の見えない」闇の向こうに小さな光が見えてくる。閉じこもるのにも飽きた。世の中の閉塞感にも退屈している。僕の調子っぱずれはまだまだなくならないけれど、シェルターから出るためのヒントは2年間でたくさんもらってきました。いまももらいっぱなしです。感謝。