昨夜読んだ本と、ハナレグミ@日比谷野音

「原因というのはうまくゆかないもののことである」。これはラカンのことばなんです。原因というのは背理的ですけれど、原因がうまくみつからない場合にのみ使われることばなんですよ。(中略)人間が「原因は?」と訊くのは、「原因がうまくみつからない場合」だけなんです。自分が不幸な目にあっているのは、さまざまなファクターの複合的効果であって、もしほんとうにそこから脱したいと思っているなら、その不幸を構成しているさまざまな要素を一つずつ丹念に取り除いていくしかないんですね。一つ一つはものすごく小さいものだから、その除去作業自体はわりと簡単なんですよ。歯が痛くて、給料前でお金がなくて、上司に怒鳴られて、彼女にデートをすっぽかされて、靴の穴から雨水が浸みて、地下鉄に乗り遅れた……そういうことが一つ一つ積み重なった結果として、「私は不幸だ」という心的状態が形成される。
内田樹春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る』(角川書店)より内田樹氏の発言より。
昨夜、一気に読んでしまった対談本からメモっておきたかった部分。
他に、「取り越し苦労はやめよう」というのもよかった。取り越し苦労で悩んでいる人はたいてい未来を予測可能だと思ってる。でも、「未来は予測不可能なんだ」と内田氏は語る。
〈未来に向かって開かれているというのは、未来の可能性を列挙して安心したり不安がったりするということではなくて、一瞬後には何が起こるかわからないという覚悟を持つことだと思うんです。ですから、「取り越し苦労をするな」というのは、楽観的になりなさい、ということでは全然なくて、「何が起こるかわからない」のだから、全包囲的にリラックスして構えていないと対応できないよ、ということなんですね。〉
〈過去って取り返しがつくものでしょ。だって、新しい経験をしただけで、過去の意味なんて一気に全部変わっちゃうんだから。すべての行為は文脈依存的ですからね、新しい行為によって、経験の文脈が変われば経験の解釈も自ずと変わってくる。あとになって、すでに経験したことの意味が「ああ、あれはこういうことだったのか」と解釈が一変することなんてしょっちゅうじゃないですか。過去は可変的であり、未来は未知である。だから、過去についても、未来についても、確定的なことは何も言えないというのが時間の中を生きる人間の健全な姿でしょう。過去はもう取り返しがつかないし、未来はすでに先取りされて変更の余地がないというのじゃ、出口なしですから、もうどこにも行き場がない。〉(同書より)
話はガラッと変わるけど、2日前に日比谷野音で観たハナレグミのワンマンライヴは、出口ありまくり、希望の光に充ち満ちたものだった! 最高の音楽。ハナレグミ自体が、〈そこから旅立つことはとても勇気がいる〉ということを引き受けてスタートさせたものであって、新曲の「光と影」がちょうど一年前の秋葉原連続殺傷事件(出口なし……)の直後に書かれた曲で(ビデオクリップは沖縄の辺野古で撮られたそうです!)、そこで歌われているのは、〈なんにだってなれるぜ どこへだって行けるんだぜ〉という、可変的で未知な未来の肯定。ニューシングルの収録曲ぜんぶがそうだからね。
6月の完璧な晴天の下で、ハナレグミを聴くのは、はっきりくっきりうっとりと気持ちよかった!
ハナレグミの歌は開かれていて、シンプルでいて、深く、そして楽しい。たとえば、「光と影」的な聴き方をすると、「マドベーゼ」の〈君といて 僕を知る〉というフレーズも、君と僕というのが、自分の中の光と影に思えるんだよね。
シネマダブモンクスとの「Walking in the rhythm」や、さらにBOSEスチャダラパー)とAFRAを迎えての「今夜はブギーバック」などのカバーも感動に震えた。自分の曲にもエンディングに、ボブ・マーリィだったり、ドアーズを引用したりと、ハナレグミは過去の音楽を自然体で継承してるんだよね。音楽が友だちだから。
その新曲「光と影」はアンコールで、ステージから降りて客席の真ん中で、みんなに囲まれて一緒に歌った。すごく大事な歌になった。