PROJECT FUKUSHIMA


PROJECT FUKUSHIMAに行ってきました。
http://www.pj-fukushima.jp/project.html
胸いっぱいになって、帰ってきました。
写真は、会場に敷かれた「大風呂敷」。
http://ofuroshiki.tumblr.com/
PROJECT FUKUSHIMA 活動報告会レポート(平野友康さん作成)
https://www.facebook.com/note.php?note_id=10150349081536063
実際には帰りのバスの都合で観られなかったけど、これすごいです。(画家 青山健一さんの絵ブログ)
「会場のあづま球場をぐるっと見てまわったら、ステージと客席が離れてるなぁと思って、もう是非を自問自答するのは終わってからにして、今は観に来てくれている人達とステージの間をなんとかして繋ぐ方法を考えようと思ったら目の前に石灰の袋があったので……。」
http://blog.aoken.info/?eid=927

寿町フリーコンサートへ

熱帯夜、昨夜の寿町は、練乳入りのベトナムコーヒーのような、ねっとりとした空気の層が夜の底に沈殿してた。そこに汗(たっぷりと!)、アルコール、路上で焼かれている食べ物などが、剥き出しの人間の匂いが混じり合う。
宴。ソウルフラワーのステージ。被災地を大いに盛り上げたという歌はここでも歓迎される。「夜霧よ今夜もありがとう」のコール&レスポンス。「おいらの船は三百屯」、「釜が崎人情」といった僕には初めて聴く曲も、ロコ住民は身体を揺すり歌う。「荒れ地にて」、では以前ここで観たボガンボスの曲、「憧れの地」へ、を思い出してウルっときてしまった。
辺野古から、高江から、祝島から、福島から、寿から歌は自由を目指す。心の中で握り拳。

福島県相馬市に行って来ました

7月22日、福島県相馬での、「相馬市復興応援 美空ひばり・チャリティー・フィルム・コンサート」に同行しました。
入場無料/ゲスト=加藤和也山口洋。炊きだし&ラジカセ&ガイガーカウンター贈呈も!→http://t.co/5F21YAE
21日15時に東京・代官山集合。このイベントのプロデューサー中野さんの車に同乗させてもらい、震災後4回目となる東北道ルート。
車中では中野さん所有のガイガーカウンターの数値が、栃木県を抜け、福島県に入っていくうちに上昇していく。その様に(数値が上がるたびに「ピッ、ピッ」と音が鳴る)、リアルな恐怖を感じていました。それを「恐怖」とここに言い表してしまうことに、福島に住む人たちに(実際に僕はもう顔を合わせ言葉を交わしているだけに)後ろめたさも感じてしまうのだけど、この感情は手放さないでおきたいです。僕は怖かった。
行きは約6時間かけ(福島市から相馬市への長い峠道の間の数値がいちばん高かった)、21時近くに相馬に到着。そのまま出演者、スタッフが集うお店へ。緊張が解け、ゆるみ、崩壊しかけた午前1時ごろ解散、ホテルへ。写真家の松本さんと相部屋。原発の話をしながら寝落ち。
翌日は、朝9時から市役所に相馬市長を表敬訪問。現在、仮設住宅などに避難している方は市内に約1100世帯、2500人。首長として震災時対応の鉄則は、「次の(二次的な)死者を出さないこと。倒壊家屋をチェックし、埋まっている人を助ける。海側の学校、老人ホーム、病院から人を逃がす」こと。今後の復興については、瓦礫の撤去はその一部でしかなく、次の生活設計を描けるようにすること。子どもたちをしっかり育てること、老人が不安なく過ごせるようにする、ということ。相馬市では震災孤児が48人。「せっかく助かった命を失わせない。強く生きていくための手段は教育」。だから、大学を出るまでの支援をする、とのこと。
約2時間後、会場の「はまなす館」入り。老人ホームや浴場が併設されている新しい施設。7月4日まではここも避難所だった。この日は300席が講堂に設置されている。仮設住宅に移った人達が招待されている。
ロビーには早くも入場を待つご婦人たち。炊きだしが予定より一時間早まる。神奈川県藤沢市からやって来たプロの調理人たちによる前日から入魂の仕込み。その一品は、鰻の夏野菜のサラダ飯。好評。ご飯の上に、海苔、茗荷、オクラ、トマト、葱、胡瓜、白胡麻、そして鰻。スクリーンでは先日の渋谷ライヴの際にヒートウェイヴのファンから寄せられた、それぞれの「LIFE」を切り取った写真が次々に上映されている。
開演。相馬でCDショップを営むモリタミュージック森田さんのMC→山口洋、「こんなにうら若いみなさんの前で歌うのは初めてです」。いきなりどっかんと笑いが来た。つかんだ。曲名のアナウンスだけで会場が湧いた「リンゴ追分」。拍手! 阪神大震災のときに作られた「満月の夕」。→加藤和也さんの挨拶。「美空ひばりフィルムコンサート」。相馬のために新たに編集された映像。歌で綴られていく「再生」への希望。ご当地ソング「相馬盆唄」(ひばりさんのブラジル公演の映像。4分27秒より。ロックンロール!)が流れたときの拍手はひときわ大きかった。
終演後の会場ロビーは、来てくださった「うら若いみなさん」が加藤和也さん、山口洋にサインを求め囲んでくださり、僕らは大きな笑顔がプラスされた感謝の言葉をたくさんいただき、横を見れば炊きだしチームが「おみやげ」丼のリクエストに大忙し、という幸せな時間だった。→片付け、記念撮影。現地の人たちとのお別れ。17時会場出発→23時東京到着。
追記
美空ひばりフィルムコンサート」収支報告が発表されました。ライヴでのグッズ売り上げ全額と募金から、「炊きだし食材費」、「仮設住宅へ寄贈したラジカセ100台」、「相馬の有志に進呈したガイガーカウンター代金」を捻出。 http://www.kk.iij4u.or.jp/~tero/life11.html

弱音中南米旅日記 2003

2003年にメキシコ、ボリビア、ペルーを旅したときの日記帳が見つかりました。
なんかタコスばっかり食べたり、お腹こわしたり、旅程のことで悩んだりしてる自分がそこにいました。ほぼ、それを書き写しました。
http://d.hatena.ne.jp/tuktukcafe06/20030216

ペルー 1989


当分、日記を更新しそうにないので、1989年11月の南米ペルーでの写真を貼り付け。左は弟。標高は3000メートル超えてます。リュックを背中ではなく腹のほうで抱えているのはペルーでの標準装備方法。ピックポケット(スリ)対策。
休暇は二ヶ月。最初の2週間はアメリカのサンフランシスコに滞在し(大地震に遭遇した→)、ここでペルーへの往復チケットを購入。チケットはマイアミ経由のリマ往復(30日間のFIXチケット)。帰りはマイアミに数泊し、またサンフランシスコで一週間余りを過ごすというプランでした。
初めての南米にペルーへ行こうと思ったのは、この前年、リュック・ベッソン監督の『ビッグ・ブルー』という映画を観て、その中のアンデスの高山列車のシーンに惹かれたからです。
主人公のジャック・マイヨールでもライバルのエンゾでもなく、ギリシアの海でもなくイタリアのママのパスタでもなく、高山列車とアンデスの人たちが登場するシーンに強く心を奪われました。映画の予告編(→)だと、17秒から21秒にその高山列車のシーンが出てきます。遠く離れた地に暮らす、言葉もわからない人たち(ケチュア語)だけど、なぜか懐かしく感じる。「なんなんだ、この感情は!?」って、そのとき不思議に思いました。
なので、地上絵で知られるナスカ(→その後、日本で「ナスカ展」に行った)やアマゾン方面には、同じペルー国内でもほとんど興味がわかなかったんです。山岳地帯、アンデスへの憧憬ありき。まずは首都のリマに着くことになるんだけど、そこから旧インカ帝国の首都だったというクスコという街まで行ってそこに腰を据えて、アンデスの人たちと会いたい。そんな希望を持っていました。
あー、マイアミ(田舎の温泉場みたいな場所です)からリマに着くと、街の明度にまず驚きます。震災前の渋谷と震災後の渋谷ぐらい違います。
そう、ペルーの首都リマに着いて最初の印象は、街の薄暗さでした。リマと比べたら、マイアミなんて煌々と輝く未来都市です。しかし、僕らはその薄暗さよりも、治安の悪さ(後述)に辟易しながら、リマに数日間滞在することになります。
ペルーの社会史には全然詳しくないけど、1989年のペルーというのは相当に政情不安な国だった、というのは肌で感じました。つーか、そういうの調べてから来るべきだった。または調べて旅行を断念するか。Wikipediaによれば当時のペルーは「失業率は実に66%」「インフレ率8000%」。その数字を知ると、唖然とする。
リマの宿では、まず荷物の持ち方から習いました。身体の前で抱えろ、と。ひとり旅ではなく弟が一緒にいたことにこれほど安堵したこともありません。ダウンタウンで不審な男たちに囲まれそうになったときも、お互いに声を出し合い牽制して抜け出したり。驚いたのは、アヤクチャという県ひとつを反政府勢力が掌握してるから、クスコに行くのに陸路は使えなくて、航路のみだとか。僕らは飛行機でクスコに飛びました。
クスコ。その昔、インカ帝国の都だった街。標高3600メートル。つまり富士山の山頂と高度はそんなに変わらない。飛行機から降りるとすぐに頭痛と吐き気に襲われました。酸素が薄いのです。弟にはなんともないらしい(一ヶ月ほどの滞在中、いちども高山病にかからなかった)。そんなわけで待ち望んでいた景色を味わう余裕もなく、タクシーで街の中心まで行き、重いリュックを背負ったまま宿を探しました。ぜーぜーしながら。安宿を探しに見知らぬ路地を入っていくことができずに、広場に面したこざっぱりしたホテルに決めました。それでも一泊15ドルです。
広場はクスコの中心です。近くに大聖堂があります。街はすり鉢状になっていて、中心の広場が底です。街は放射状に、丘の上のほうに向かって延びている。石畳に赤茶色い屋根。インカを侵略したスペイン人たちが作り替えてしまった街だろうけど、僕には長い歴史を感じさせる街の景色でした。夜になると家々や路地にオレンジ色の明かりが灯り、とても美しい。
このクスコに着いても、僕の本心は、(これまで書いてきた文章に透けているように)ペルーの治安が心配で、アメリカに戻りたくて仕方がなかった。それは前年のインドの旅とも違う恐怖だったのです。僕はスペイン語がまったくわからないけど、それでも毎日街角で売られている新聞から、どこどこでテロがあった、どこどこで爆弾が爆発した、というようなニュースを知り、脅えていました。リマに比べたらのんびりしているように見えるクスコでも、外国人旅行者を狙った首締め強盗があったという話も聞いたし……。とんでもない国に来てしまった、という後悔。ペルーに来た最初の一週間はとにかくそんなネガティヴな気持ちでいっぱいでほとんど楽しめなかったんです。
しかし、リマからマイアミまで帰りのチケットは一ヶ月後の日付が決められていました。変更不可。か、どうか航空会社に確かめにも行った。ならば、もう新たに片道チケットを購入してみたらどうか、とも計算してみた。持ち金不足。クレジットカードも当時は持っていなかったし。インターネットもない。郵便局は半年以上ストライキ中という信じられない状況(クスコの郵便局だけでなくペルー国内! だから郵便はこれから南米の他の国を旅するという旅行者に託していました)。不安と孤独感。ちゃんとそのうち慣れるんですけどね。
そう。恐怖なんて慣れます。だって、その恐怖の元は伝聞だけで、注意深くなった僕らには何も(幸運にも!)実害はなかったから。いちど落ち着いてクスコを眺めてみると、そこにはゆったりとした時間が流れ、のんびりとした光景が広がっていました。クスコはペルー(南米の、といってもいい)有数の観光地だから、外国人旅行者も(こんな時期なのに。ただしスペイン語圏の人がほとんどだった)少なくない。でも彼らを目当てにしたうさんくさい商人なんてほとんどいない。彩り豊かな民族衣装を着た先住民たちが、広場でアクセサリーを売っています。一瞬も隙を見せられないリマの都会とは違う時間が流れています。
路地に入ると、インカ時代の石畳がそのまま残っています。博物館ではなく、誰もが触れられる通りに。僕らには時間がたっぷりあったので、この街を歩きに歩きました。弟はスペイン語を数字から覚えはじめ、すぐに両替の交渉を担当するようになりました。お土産屋をあらかた覗き、丘の上の遺跡まで足を伸ばし、日に何度もカフェに入りました。暇なときは唯一持っていた日本語の本、南米のガイドブックを(行く予定のない国のページまで!)読み返していました。
マチュピチュにも行きました。憧れの高山列車に乗ってクスコから約10時間かかる(その間に僕は高山病で吐きました)プーノという街まで行き、チチカカ湖で葦でできた浮島に暮らす人たちに会いました。そしてまたクスコに。僕らはクスコが大好きになっていました。2003年には、クスコを再訪するのです。(つづく

最近読んだ本memo

アンダー・ザ・ドーム 下 徹夜で一気に、というわけにはいかなかった。上下巻で1300ページを越える長さ、それに登場人物の多さ(ファーストネームから性別がわからない非ネイティヴ読者としては何度も「この人だれだっけ?」という状況になります。さらにニックネームまである!)が障壁となった。
障壁、これがメイン州の小さな町、チェスターズミルをなんの理由もなくすっぽり覆い、町は世界から遮断される。
ガイガーカウンターのシーン、「見ているとメーターの針が跳ね上がって、+200に到達した」(p237)。こういうとき、いまの僕には「単位」が気になる。ミリシーベルトなのか、マイクロシーベルトなのか。
下巻の帯の、「遮断された電気。減りゆく食糧。刻々と汚染された空気」というコピーは、現在進行形のこちらの恐怖を表しているかのようだ。
いとうせいこう『からっぽ男の休暇』
南の島で毎回、ひとつずつ童話を思い出していく「からっぽ男」の連作短編小説。東京での仕事をすっぱりと辞め、一年間の休暇を南の島で取る男。
〈やはり僕はからっぽを出て、からっぽに着いただけなのだろうか。いや、もともと僕自身がからっぽで、どこに行っても、そのからっぽを満たせないのだろうか。こんなに優しい南の島でも。〉
作者のその当時の心象を想像すると切ないし、その中でも着想し、物語を紡いでいく創作力に感服します。手元に置いておきたい、なくしたくない本。いとうせいこうの本は絶版が多すぎる!
[rakuten:book:13211239:image] 2009年刊。「0円ハウス」から少し離れて、宝くじ売り場、靴磨き屋、フリーマーケットなど、坂口恭平がフィールドワークした、都市の「見えなくても、ある」具体例を紹介。
〈必要な空間を新しく作り出すのではなく、身の回りに既に存在しているものを自分の体の延長であると再認識し、空間を構築していく」これこそ新しい生活、建築の形であると、僕は考えている。〉

Hitsville UK

この日のヒートウェイヴのライヴは、バンド史上、21世紀ベストのステージだったのでは。なんでこんないいバンドが、半年に一回しかライヴしないんだか。
アンコール最後の曲の後、会場に流れたのがクラッシュのこの曲。